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  • ピュリツァー賞2003-2011
    [ 2012-01-05 21:24 ]
  • ピュリツァー賞1994-2002
    [ 2012-01-04 22:01 ]
  • ピュリツァー賞1981-1993
    [ 2012-01-03 20:13 ]
  • ピュリツァー賞1970-1980
    [ 2012-01-02 15:18 ]
  • ピュリツァー賞1962-1969
    [ 2012-01-01 16:39 ]
ピュリツァー賞2003-2011

先日購入したナショジオのピュリツァー賞全記録から、2003-2011について感想など。

第五期、デジタル革命。これは作品解説ではなく、私の感想文です。
確かにデジタルの時代なのですが、私はもう一つ副題をつけたくなります。
「キヤノンの時代」

この章で本書に収録されている16の作品のうち、13がキヤノンを使用しています。圧倒的です。のこり3作品がニコンです。それ以前では、確かキヤノンを使用していたのは3作品だけだと思いますから、劇的な変化です。


2004年のニュース速報部門「イラク戦争」シェリル・ディアス・マイヤー&デービット・リーソンと、2005年のニュース速報部門「イラク再び」AP通信スタッフがイラク戦争を直接取り上げた写真で受賞していますが、それまでの戦争写真とは様変わりしています。アメリカが行う戦争のやり方が、ロボットや誘導ミサイルによるものとなり、従軍記者達が直接激戦の中にいると言うことが無くなりつつあります。それでもアフガニスタンなどでは激戦が行われていますが、正規軍の戦いからゲリラ戦中心に変わったことにより、従軍記者といえども容赦なく命の危険にさらされます。その為かアフガニスタンを扱った作品は一つもありません。戦争の変化が、報道写真にも大きな影響を与えています。

2008年ニュース速報部門「日本人ジャーナリストの死」アドリース・ラティーフ
民主化を求めるミャンマーの争乱の中、取材中のAFP通信記者、長井健司さんが死亡した事件は、日本でも広く報じられました。その証拠となる決定的な写真を撮影したのが、ロイター通信のラティーフです。キヤノンの5Dで撮影されたこの写真は、ロイターに初のピュリツアー賞をもたらしますが、初と言うのはかなり意外です。やはりピュリツアー賞はアメリカの賞ですから、AP通信が圧倒的です


2009年ニュース速報部門「絶望の底のハイチ」パトリック・ファレル
2009年に4回もハリケーンによる大きな被害を受けたハイチを取材した写真ですが、キヤノンG10というコンパクトデジタルカメラによる作品であることが目を引きました。レンズが135mmと記載されていたりするのでひょっとするとまた間違いなのかもしれませんけれど、G10くらいのカメラであれば、十分にこのような取材にも使えるだろうなとは思います。作品はモノクロなので、画質でコンデジを感じるところはありません。



と個人的な趣向から本書について書いてきました。ピュリツアー賞本来とは違う方向性でしたが、世界の歴史と、報道の歴史と、それを見るアメリカの立場、そしてカメラの発達史まで、いろいろな切り口のある写真集だと思います。

その中でも忘れられないのは、1969年の「サイゴンでの処刑」エドワード・アダムスと、1973年の「ナパーム弾から逃げる少女」ニック・ウット。そして1994年の「ハゲワシと少女」ケビン・カーターです。サイゴンでの処刑では、被写体となったロアン中佐に不幸をもたらし、最後は癌でしたが非業の死を遂げます。ナパーム弾から逃げる少女では、被写体となった少女もカメラマンも無事な生涯を送りますが、ハゲワシと少女ではカメラマンのカーターは自殺してしまいます。1枚の写真が、何と大きく人の運命を変えてしまうことでしょうか。

戦争のロボット化は戦争カメラマンの取材にも大きく影響を与え、今後は戦闘そのものの写真よりも特集部門での被害などが伝えられるようになるのでしょう。逆にデジタルカメラの進歩は、想像を超えた写真を見せてくれるのかもしれません。そしてまた、受賞したカメラマンによってこの言葉が語られるのでしょうか。

「ピュリツアー賞を受賞できたことはうれしいが、できるなら、このような(悲惨な)写真でない作品で受賞したかった」と。



by abikoflower | 2012-01-05 21:24 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
ピュリツァー賞1994-2002

先日購入したナショジオのピュリツァー賞全記録から、1994-2002について感想など。

第四期、カラー写真、デジタル化、女性写真家、アフリカの後半。
これは作品解説ではなく、私の感想文です。

1994年 特集部門「ハゲワシと少女」ケビン・カーター

1993年2月、カーターはスーダンを取材します。今もスーダンの紛争は続いているはずですが、当時は北部のイスラム教徒による南部弾圧が激しく、大規模な飢餓が発生していました。国連による援助もゲリラの妨害に遭いままならず、難民キャンプでの悲惨な状況はカーターらの写真によって広く世間に知れ渡るところとなりました。取材中、食糧配給所の近くの藪に入ると、すすり泣く子供の声。そこには餓死寸前の子供が砂埃の中にうずくまっていました。そのとき、死肉のにおいをかぎ取ったらしいハゲワシが近くに舞い降りてきます。カーターは位置を決め、子供と、死を待つハゲワシをファインダーにいれて数枚シャツターを切り、その後にハゲワシを追い払いました。

この写真は大変有名になり、1994年のピュリツァー賞を受賞しますが、賛美だけを受けた訳ではありませんでした。子供を助けることより写真を撮ることを優先するようなやつは、ハゲワシと同じだと激しい批判にもされされたのです。1994年6月、ピュリツァー賞の授賞式に参加したカーターは大変喜びましたが、悩みも大きく、同年7月28日、愛車の中でガス自殺を遂げることとなります。

1973年の受賞作、「ナパーム弾から逃げる少女」ニック・ウットとの比較を考えざるを得ません。どちらも大変有名な写真ですので、検索すればすぐごらんになれると思います。ニック・ウットは写真を撮ったのち少女を助けて、病院に運びます。その後も交流を続けてハッピーエンドとなりますが、ケビン・カーターはハゲワシを追い払うのみで有ったので激しい批判にさらされ、なやみ、自殺してしまうのです。これは一概に比較することは出来ません。この20年の間の人権意識の高まりはきわめて激しく、カーターも20年前に撮影していたら、それほどまでの批判は受けなかったでしょう。またウットは少女を助けることが可能であり、助けられるような状況でしたが、カーターは、仮に少女を配給所まで連れて行ったとしても、その命を助けられたかどうかは疑問です。

実際ピュリツアー賞は、「写真を撮るより助けろ」という出来事の集合体と言っても良いでしょう。ゲリラや暴徒に惨殺される場面では、止めれば自分が殺されてしまいますから致し方ないと言えますが、写真を撮ること以外に出来ることがある場面は多々出てきます。

答えを出すことは出来ません。

1997年 ニュース速報部門「救出」アニー・ウエルズ
ピュリツアー賞の中では希有な作品です。大雨による洪水の中、二人の少女が無謀にも川下りに挑戦します。当然のようにその試みは失敗し、二人は濁流に呑み込まれそうになります。一人は岸に近いところにいたためすぐに救出されましたが、もう一人は今にも流されてしまいそうです。それを決死の救助隊が助ける様を見事に、かつきれいに捉えています。またその少女が結構かわいい。この話のピュリツアー賞的特記事項は、無事に助け出されてハッピーエンドに終わったと言うことです。こういう写真で受賞できれば、最高です。

1999年 特集部門「クリントン大統領のスキャンダル」AP通信スタッフ
私にとってのこの事件は、全く別の意味を持っています。後に大統領の弾劾裁判が行われるかどうかと言うとき、民主党と共和党は激しく多数派工作を行っていました。なぜ多数派工作が必要だったのか? アメリカの議員は、党議などに拘束されることなく、各個人が正義に元図いて判断して自由に投票するからです。自分の意志で行動できない、能力が無くても、地盤看板ひっさげて世襲議員が横行する日本と何と違うことか。自分で是々非々の判断が出来なくて国会議員と言えるのか。日本民主主義のお粗末さの対角の出来事として、印象深い出来事でした。

ピュリツアー賞的には、ニコン・およびコダックのデジタルカメラで撮影された作品として、初受賞です。それまでもデジタル化はされていましたが、フイルムからスキャンしたもので、はじめからデジタルで撮影されたのはこの作品からです。




つづく

by abikoflower | 2012-01-04 22:01 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
ピュリツァー賞1981-1993

先日購入したナショジオのピュリツァー賞全記録から、1981-1993について感想など。

本の中では第四期、カラー写真、デジタル化、女性写真家、アフリカとして2003年までくくられていますが、長いので半分に切って前半について。これは作品解説ではなく、私の感想文です。

1981年特集部門「ジャクソン刑務所での生活」タロウ・ヤマサキ
名前からして日系人と思われますが、その点については何も記載がないのでわかりません。彼は12日間にわたって刑務所を取材しましたが、その後カラーで撮り直してほしいという編集者の要望でさらに取材を続けます。そしてピュリツァー賞で初めてのカラー作品として受賞します。

1982年ニュース速報部門「レーガン大統領暗殺未遂事件」ロン・エドモンズ
何と、初のカラー写真が受賞した翌年、スピードグラフィックスカメラによる作品が受賞することになります。ただ、本文の中で秒5コマのモータードライブで撮影したと記載されていますので、はたして本当にスピグラによる写真であったのかどうかは疑問があります。掲載された写真も細長く、4x5というよりは35mmの用に思われます。データの記載間違いかもしれません。

1983年特集部門「エルサルバドル、殺戮の地」ジェームス・B・ディックマン
エクタクロームなども使用されていますが、掲載されているのはモノクロの写真です。暗い地面に白い髑髏が散乱し奥には岩に止まるハゲワシがシルエットでいる、きわめて印象的写真です。機材の進歩と共に、撮影することから表現することへの変化が感じられます。初期のスピードグラフィックスなどでは撮影するだけで大変だった訳ですが、撮影が簡単になるにつれて、表現に工夫が見られるようになってきたと思われます。

1985年特集部門「飢餓」スタン・グロスフェルド
エチオピアで起きた飢餓を撮られた作品群ですが、そのなかで母親と膝に乗るやせ細った子供を撮影した作品です。ピュリツァー賞にかぎらず欧米の写真は被写界深度が深く全体にピントを合わせた写真が多いのですが、これは背景をきれいにぼかしており、大変印象的なポートレート的作風になっています。このとき撮影された子供は、その数時間後に亡くなったそうです。

1986年 ニュース速報部門「コロンビアの火山災害」キャロル・グージー&ミシェル・ドゥシール
この作品の特徴は、フジカラー・ネガフイルムが使われていると言うこと。それまでは大部分コダックで、わずかにイルフォードやアグファが散見される程度でした。この頃からフイルムも日本製が使われることが多くなってきたのかもしれませんが、後で考えればデジタル化まで20年、わずかな期間のことでした。

1987年 特集部門「危機に瀕する農家」デービッド・ピーターソン
ここではじめて、使用カメラにキヤノンが出てきます。この時代ですとキヤノンもF1など各種の高性能カメラを作っていたはずですが、世界的な普及は遅れたのでしょうね。

1989年 ニュース速報部門「早すぎる死」ロン・オルシュワンガー
火事から救出された少女(残念なことに二日後に死亡)を写した、火事の写真が好きなアマチュアカメラマンが撮影した写真です。カメラはミノルタが使用されています

1991年 ニュース速報部門「南アフリカの抗争」グレッグ・マリノビッチ
アパルトヘイトから新たな体制に移行しようとする南アフリカの激動の時代を取材した写真です。対立する黒人グループが、一人の男をリンチし、ガソリンをかけて燃やします。火に包まれた男の姿は、壮絶すぎるものがあります。ニコマートとフジカラー・ネガフイルム、そして35-70mmのズームと300mmで撮られた写真です。




つづく

by abikoflower | 2012-01-03 20:13 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
ピュリツァー賞1970-1980

先日購入したナショジオのピュリツァー賞全記録から、1970-80について感想など。

ピュリツァー賞に特集部門が新設され、ニュース記録から取材へと、カメラ報道が進化してゆく時代です。またカメラやレンズも進化し、多様性が広がってきました、これは作品解説ではなく、私の感想文です。

1970年の特集部門は、「季節労働者の移動」ダラス・キニーが受賞しています。南部から北部へ、作物の収穫期を追いかけ低賃金で移動しながら労働してゆく、アフリカ系黒人労働者たちを取材した作品。報道写真にも芸術性を求めた、特集部門らしい受賞作です。


1971年ニュース速報部門「キャンパスでの死」ジョン・ファイロ。ここではニコマートが使われています。
1974年の特集部門は「英雄の帰国」サル・ビーダーが受賞していますが、ここではニコンの「80~200mmのズームレンズ」が使用されています。これ以前にもズームを使用した作品があるのかもしれませんが、ズームレンズと明記されているのはこれがはじめてです。
1977年のニュース速報部門「バンコク路上の暴力」ニール・ウールピッチはニコマートを使用しています。
1978年のニュース速報部門「スポットライトの中で」ジョン・ブレアはペンタックスを使用しています。
1979年ニュース速報部門「小さな町の恐怖」トーマス・J・ケリー三世はフジカを使用しています。

それまでの限られた高級なカメラ機材から、この時代は多用な低価格カメラが普及し、より多くのカメラマンが誕生し、さらにニュース速報部門で多く使用されているように信頼の置ける機材として使われ始めたのだと言うことがわかります。またズームレンズが一般化しつつある時代であったこともわかります。



1973年ニュース速報部門「ナパーム弾から逃げる少女」ニック・ウットは、ナパーム弾の炎に焼かれて全裸で逃げてくる少女を写した、有名な写真です。この写真を写した後、ウットは焼けた少女の背中に水を掛けてやり、そのご病院へ搬送しています。この写真と少女は北ベトナム政府によってプロパガンダに使用され続けましたが、やがて彼女は留学中のキューバから亡命を申請し、カナダに移住します。そしてウットと再開して親交を深めてゆくことになります。これは、この後に受賞するある作品との、大きな対比となる作品でもあります。



つづく

by abikoflower | 2012-01-02 15:18 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
ピュリツァー賞1962-1969

先日購入したナショジオのピュリツァー賞全記録から、1962-69について感想など。

4x5スピードグラフィックスカメラから35mmを中心とした小型カメラへの時代。ベトナム戦争と、アメリカの公民権運動などの写真が並びます。これは作品解説ではなく、私の感想文です。

小型カメラでの報道、となればライカの時代かと思いきや、何とニコンが圧倒しています。ライカが2度に対してニコンは5度、受賞作品の中で使用されています。1959年にニコンFが発売されていますから、レンジファインダーのライカに対して一眼レフのニコンが使用されることが増えたのでしょう。

1966年、「爆撃からの逃走」沢田教一
アメリカ軍の爆撃から逃れるため、ベトナム人の母子が水の中を逃げてる場面を写した有名な写真です。命知らずのカメラマン沢田教一はアメリカ軍の先頭に立って地雷原に踏み込むなど、死に至るような撮影を続けました。1970年、カンボジアで車で走っているところを襲撃されて命を落とします。

1969年ニュース報道部門 「サイゴンでの処刑」エドワード・アダムス
南ベトナム軍の将校が路上で捕虜のベトコンを射殺する、これも大変有名な写真です。南ベトナム軍の残虐さの証拠として広く使用された写真です。撃ったのはグエン・ゴク・ロアン中佐。

射殺した後、彼はアダムスのところへ来てこう言った。「やつらは私の仲間を大勢殺した、あんたの仲間もだ」それだけ言って立ち去ったという。

中略

ロアンはその後准将に昇進するが、この写真に苦しめ続けられる。戦争の末期、アダムスとロアンは知り合いになる。ロアンは戦争後アメリカに渡りレストランを経営するが、失敗してしまう。アダムスがロアンのレストランを訪れると、トイレには「みんなおまえが誰だか知っているぞ」と言う落書きがあったという。

中略

「あの日二人の男が死んだ」とアダムス。「ベトコンとロアンだ。写真は誤解をまねこともある。すべてを語っていないこともある。ベトナム人の多くは心からロアンを敬愛していた。根っからの悪人ではなかった。彼のしたことが正しいという訳ではない。だが、彼は戦争の当事者として、かなり非道な連中と戦っていたんだ。私たちは、ベトコンが罪のない多くの市民にしたことを忘れがちだ。ロアンのレストランで見た落書きを思い出す。あそこにあれが書かれたのは、自分のせいだと思うよ」



写真は誤解をまねこともある。すべてを語っていないこともある。忘れてはいけないことだと思います。

つづく

by abikoflower | 2012-01-01 16:39 | 雑感 | Trackback | Comments(0)